SiGnal
Railway Writer's Mystery World
日本国有鉄道最後の事件
(第2回)
第一章 消えた要人

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 国鉄の分割民営化後の新会社、中京旅客鉄道株式会社の命運の大きな鍵(かぎ)を握る会合を明日一二月五日に控え、佐田は朝から名古屋ゆきの準備に追われていた。

 替え下着などの身の回りの物は妻がそろえてくれたが、肝心の会議の資料がまだ手つかずだった。朝食もそこそこに、電話で呼びつけた助手と二人がかりで整理したものの、一冊のファイルにまとめるとができたのは、昼過ぎだった。前夜のうちに済ましておこうと思っていたのだが、予期せぬ電話がはいり、準備どころではなかったのだ。

 佐田はファイルを大きめのアタッシュケースに詰め込むと、妻の用意したコーヒーを飲み、車に乗った。大切な会議を前に、なんとなく気分が高揚しているのが自分でも分かった。小春日和の天気までが、自分の前途を祝福しているような気がした。

 大学に行く途中、佐田はふと墓参りを思いたち、車の進路を変えた。父の墓前に明日のことを報告しておこうと思ったのだ。

 世間にはほとんど知られていないが、佐田の父は、たたきあげで大駅の助役までのぼりつめた国鉄職員だった。何よりも国鉄を愛し、生前は「おれは家族より国鉄を大切に思っている」と広言してはばからなかった。列車に乗ること自体も大好きで、国鉄の増収キャンペーン「いい旅チャレンジ20,000?」などが話題になるずっと以前に、国鉄の全線を乗り終えていた。

 父につれられ、佐田自身もあちこち乗りまわったが、中学にはいると父親と一緒に出歩くことのうっとうしさから、自然に鉄道からも足が遠のいた。それでも、鉄道に対する興味はいくらか残っていたのか、高校にはいると、試験の終わったときなどに、ふらりと近郊のローカル線に乗りに出かけたものだった。それは大学にはいってからも、大学の助手になってからも続いた。

 それが、あの日を境に、国鉄を、いや正確にはそこで働く国鉄労の組合員たちを、毛嫌いするようになった。憎むようになった。

 あの日、昭和四六年七月九日。

 夏とは思えない冷たい梅雨の雨が、朝から降り続いていた。研究室で学生たちの答案を教授に代わって採点していると、一時過ぎ、弟から電話があった。

「兄さん……父さんが死んだ……自殺だ……」

 佐田は、すぐに事情が呑(の)み込めた。こんなことにならなければいいがと思っていた矢先だった。悲しみよりも、怒りがこみ上げ、電話を切る手がぶるぶる震えた。

 佐田の父はその年の三月に都心のターミナル駅の助役に昇進した。折しも、マル生(せい)と呼ばれた生産性向上運動の行き過ぎに反発した国鉄労が、当局との全面対決にはいっていた。いちばん難しい時期に、望みうる最高の地位についてしまったのが、彼の不運であった。

 かつて自らも国鉄労の組合員であった佐田の父は、上からの指示と、組合員たちの突き上げの板ばさみになり、苦悩した。両方の立場がある程度分かり、鮮明な態度をとれないため、どちらからも信頼されなくなり、ののしられる。かつての仲間たちからは裏切り者と決めつけられ、駅長からは能なし呼ばわりされた。ひたすら国鉄を愛してきた人間にとって、これほどひどい屈辱があったろうか。

 とくにかつての仲間たちである国鉄労の組合員の仕打ちはこたえたようで、家でもよく愚痴をこぼした。

 「なぜ、どうして……、同じ労働者なのに、同じ国鉄職員なのに、いくらなんでもあんまりじゃないか」

 毎晩おそく帰っては深酒をあおる日々が続いた。疲労が溜(た)まってゆくのが、誰(だれ)の目にも分かった。佐田たち家族はそんな父の苦労を見るにしのびず、いっそ辞(や)めてしまえばいい、と何度かすすめたのだが、中途で任務を放棄するような父ではなく、頑として聞き入れようとはしなかった。

 そして、とうとう、自らの責任に耐えられなくなり、死を選んだのである。

 佐田や家族たちの怒りは、当局に対するよりも、国鉄労の組合員たちに対して向けられた。佐田らは告別式にやって来た組合員たちを追い返した。それが父に対する供養だと信じていた。

 それ以来、佐田は国鉄嫌いになり、国鉄の列車に乗るのを極力避けるようになった。東京ではもっぱら車か民鉄、地下鉄を利用し、遠距離は飛行機を使った。国鉄に乗るのは、せいぜい新幹線くらいだった。

 枯れ草を踏みしめて父の墓前に立つと、万感の思いがこみあげてきた。佐田は、花も線香も手向(たむ)けず、ただ手を合わせ、語りかけた。

 (父さん、仇(かたき)は討ちましたよ。もう国鉄労は終わりです。国鉄の歴史に、私がこの手で終止符を打ちます。先月末、国鉄分割民営化法案は国会で可決され、国鉄労は第二勢力に転落しました。私は、さらに、国鉄労の連中ができるだけ新会社に再雇用されないよう目を光らすつもりです。中京旅客鉄道が発足したあかつきには、私は顧問として名をつらね、厚遇されるはずです。父さん、やりましたよ……)

 墓参りを終えて大学に着くと、佐田は研究室に閉じこもり、明日、自分の果たすべき役割をもう一度考えてみた。

 会議は、午前一〇時から、名古屋の尾張(おわり)ホテルで開かれることになっていた。それは、早くも名古屋地区の国鉄用地処分計画の青写真をつくり、中京旅客鉄道の人事も決定する、実質的な場であった。

 会議は公にされておらず、ごく一部の関係者しか知らなかった。

 新会社の会長、社長はじめ役員は、その座をめぐって、財界、政治家、運輸省、国鉄、国鉄OBなどが、しのぎをけずっていた。六つの旅客鉄道会社の経営の見通しとは関係なく、政治家や財界をはじめとする関係者が力を誇示する場として、利権の対象として、虎視(こし)たんたんと狙(ねら)っていた。とくに佐田が顧問として招かれることが事実上決まっている中京旅客鉄道は、東海道新幹線というドル箱を運営する有望会社として、人気の的であった。

 そのため、一介の経済学者に過ぎない佐田のところにまで、自薦他薦を問わず、多くの人間が売り込みにやってきて、頭を下げた。なかには、こんな人が、と目を疑うような人物までやってきて、佐田を驚かせた。どうも、皆、佐田を政府首脳と直結している人物と見ているらしい。

 それは、半分は本当であったが、佐田が首脳を動かしてどうこういう気はさらさらなかった。また、老獪(ろうかい)な首脳にたいして、そんなことができるはずもなかった。国鉄労を潰(つぶ)す、ということを最大の目標に、国鉄再建監視委員会で活動していた佐田には、誰が新会社の社長になろうが、どうでもよいことであった。ただし、労働組合、とくに国鉄労に妥協的な人物の登用だけは阻止しようと思っていた。

 そもそも新会社の人事は、政府が任命したばかりの新設委員によって検討、選任されることになっており、委員でもない佐田などが関与できない事柄のはずである。ところが、舞台の裏側では、分割民営化法案審議中から、影の新設委員ともいうべきメンバーの手で、売却予定地処分もからめてその構図がつくりあげられていた。実際問題として、超大物ばかりの新設委員が直接ことにあたれるものではなく、法案成立から新会社発足の昭和六二年年四月一日まで僅(わず)か四か月間に移行準備を滞(とどこお)りなく行なうためには、しっかりしたたたき台と根回しが必要であることも確かだった。

 首脳が私的諮問委員のような形で、ひそかに影の新設委員を委嘱したとき、佐田もそのうちの一人に選ばれた。その報酬として中京旅客鉄道会社の顧問のポストを約束されたのである。

 首脳のほうは、佐田を巧みに利用して、新会社の人事を意のままにしようともくろんでいた。自分から口をはさむことは立場上難しいし、政権維持のためには、敵をつくりたくない。そこで、学者という中立的な地位にあり、この国鉄分割民営化路線の功労者ともいえる佐田を通じて、自分の意中の人物を新会社に送り込もうとしていたのである。

 もちろん、最初から佐田を利用したのでは効果は薄く、意図を見抜かれる恐れがある。首脳は、佐田を切り札として使おうとしていた。つまり、財界同士の話し合いで決着がつかなかったり、政治家の思惑が複雑にからみ収拾がつかなくなったりしたときに、佐田を裁定者にしようとしていた。人事の最後の詰めまでに、自分の意中の人物が候補者のリストに残ってさえいれば、あとは佐田がその候補者を指名してくれるのを待てばいい、というのが首脳の腹づもりだった。

 それゆえ、首脳は、佐田の中立性を、事あるごとに印象づけるように心を砕いていた。例えば、首脳が整備新幹線(北海道、東北盛岡−青森、北陸、長崎、九州)着工の必要性を、国鉄再建監視委員会の最終答申に盛り込むように主張したとき、佐田にはあくまでも反対を押し通すように要望していた。「整備新幹線着工絶対反対」という佐田の主張は、各マスコミに大きく取り上げられ、佐田自身も雑誌などにその主張をたびたび書いた。おかげで、分割民営化に反対する評論家などからもその見識を評価され、自分の信念を曲げない良識ある学者、というイメージが定着しつつあった。

 佐田は、むろん、首脳のそういう意図を十分承知して動いていた。彼にとって一番怖(こわ)いのは、その首脳の機嫌をそこねて影の新設委員からはずされることであった。佐田はとにかく、自分の手で国鉄にけりをつけたかった。あの国鉄労を自分の手で葬りたかった。

 だからこそ、首脳の意向を汲(く)んで、ここまで行動してきたのである。

 しかし、佐田は、自分の怨恨(えんこん)を晴らしたいだけで、再建監視委員会や、いささかきなくさい「影」に加わっていたわけではない。そこには、やはり経済学者としての純粋な興味も少なからずあった。そして、自分なりの理論、考えに基づいて、国鉄の改革に取り組んだことも事実であった。

 現在は、あらゆる意味でその総決算の時期にあたっていた。明日の会議は正式な新設委員会に先だって、六社の中で具体的な話が最も先行している中京旅客鉄道の人事と、名古屋駅のターミナルビル化、名古屋駅隣の笹島(ささじま)貨物駅跡用地転用問題を軸に、新会社のモデルケースとして関係者の意見を聞く検討会議という体裁を整えてあった。実際には影の新設委員構想を示して、中央と名古屋政財界の内諾を得ようとのねらいである。

 とりあえずは、明日の会議で、首脳の意中の人物を中京旅客鉄道の役員に入れることが彼の最大の課題であった。できれば、自分の出番がないまま、すんなり決まればいいのだが、と思っていたが、情勢はそう甘くはないらしいことを、前夜、首脳からの電話で知らされていた。いつものように、秘書を通じてではなく、首脳直々(じきじき)の電話であることに、なみなみならぬ意欲と決意がうかがわれた。

 研究室であれこれ思いをめぐらしているとき、秘書が迎えの車が来たことを伝えた。

 明日の名古屋での会議は、午前一〇時からのため、東京からの出席者は、今晩中に名古屋入りすることになっていた。もちろん朝の新幹線でも間に合うが、万一事故があればどうしようもない。

 「いよいよだな」

 彼はそうつぶやくと、素早く身支度を整え、アタッシェケースを片手に国鉄が差し向けたハイヤーに乗り込んだ。

 東京駅八重洲口(やえすぐち)に着くと、国鉄の制服を着た男が車に近づいてきた。

 「佐田先生ですね。お待ちしておりました。御案内いたします」

 出迎えは初めてのことだったので、佐田は少々面(めん)食らったが、俺もここまで国鉄に重要視される人物になったかと悪い気はしなかった。

 出迎えの先導で、コンコースを横切り、新幹線の改札口を通り抜けた。すれちがった何人かのビジネスマンが、おやっという顔で佐田の顔を見た。それも佐田の自尊心をくすぐった。

 11号車のグリーン車に乗り込むと、すでに星野一郎と栗原和浩がゆったりとしたシートに腰を沈めていた。星野はめずらしく秘書をつれていなかった。

 星野一郎は自由党の代議士で、良識派として幅広い支持を得ている運輸族の長老であり、国鉄を財界や政治家の食い物にさせてはならないと、分割民営化の推移に目を光らせていた。首脳のあと釜(がま)を狙うニューリーダーの石田派に属し、首脳にとってはもっともうるさく目障(めざわ)りな人物であった。首脳の自由にはさせまいと、石田派に近い財界人を派をあげて中京旅客鉄道の役員に送り込もうとしており、中京旅客鉄道がらみの案件は、星野の同意なしには前へ進みそうになかった。

 一方、栗原和浩は経済連の重鎮(じゅうちん)で、現在は副会長の座にあるが、国鉄の分割民営化にあたっては最後まで慎重論を唱え、拙速(せっそく)にすぎる改革は必ず失敗を招くと主張し、あたかも分割特需のごとくはしゃいでいる財界にあっては、異分子のように見られていた。本来なら、そうした異分子の存在を許すような経済連ではなかったが、戦後の財界を担(にな)ってきた功労者である栗原に意見できる人物はいなかった。栗原がなぜ国鉄にこだわるのかは、誰にも分からなかった。そして、国鉄の分割民営化が決定的になると栗原は、その温厚な人柄に似つかわしくない強引なやり方で、経済連内部の新鉄道会社設立推進本部長となったのである。そして、中央財界の代表として明日の会議に招かれていた。

 従って、明日の会議が首脳の思惑どおりに運ぶかどうかは、この二人の扱いにかかっているといっても過言ではなかった。二人は首脳にとってもっとも厄介な人物であり、国鉄分割民営化に伴う不正に目を光らせようとしている陣営にとっては、数少ない希望の星であった。

 佐田は、いやな人物と乗り合わせてしまったと後悔したが、今さら引き返すわけにもゆかず、ひととおりの挨拶(あいさつ)をすますと、二人のうしろの座席に腰をおろした。

 (六時か七時の<ひかり>にするんだったな)

 佐田は、心の中でつぶやいた。国鉄からこの<ひかり41号>の指定券が届けられたとき、東京駅の発車時刻が十八時四二分と中途半端なのが気に入らなかったのを思い出した。

 佐田は巡り合わせにいやな予感を覚えながらも、僅か二時間のことと覚悟を決め、かばんから会議の資料を取り出した。そのとき、ドアの閉まる音がして、列車は、中京旅客鉄道の検討会議に出席する要人三人を乗せ、東京駅を発車した。

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