SiGnal
Railway Writer's Mystery World
日本国有鉄道最後の事件
(第1回)
プロローグ

 初冬の冷気がしだいに密度を増し、肌を刺激しはじめた。

 富士を仰ぐこの広大な茶畑と水田地帯の一角に、中野孝司が身をひそめてから、三時間が経過しようとしていた。いつの間にか、空は雲で覆われ、月も星も見えない。光といえば、ところどころにぽつんと民家の灯火が見えるだけであった。富士の姿も闇(やみ)に溶け込み、夜の暗さだけが目についた。

 彼が新幹線総局静岡保線所の仲間たちに不本意な別れを告げ、ここに着いたのは三時半を少し回ったころだった。

 とうに稲刈りの終わった水田は丸裸で、人影はない。ただ、東名高速道と県道が近くを走っているため、時間までは身を隠す必要があった。中野は、その北西の方角に、祠(ほこら)をまつってある小さな丘があることを、三日前に確かめていた。

 着くとすぐに木陰で保線作業員の制服に着替えた。防虫剤の臭(にお)いが鼻をつく。制服に袖(そで)を通すのは、ちょうど一年ぶりであった。

 中野は金網の防護柵(さく)の錠前を合鍵(あいかぎ)で開け、新幹線のレールが一直線に延びる土手に上がり、作業にとりかかった。もうためらいはないはずだった。だが、デイパックからダイナマイトを取り出す彼の手は、小刻みに震えた。

 かつてのように線路敷の中央をゆっくり歩いた。列車はダイヤどおりの運転で、九分後まで安全であることは確認済みである。

 万一を考えての擬装のそぶりが、いつしか真剣な点検作業に変わってゆくのを感じたとき、中野は激しく嗚咽(おえつ)した。ひざが崩れ落ちそうになるのを懸命にこらえながら、三〇〇メートルを歩いた。通常の真夜中の徒歩巡回とは勝手が違ったが、どこにも異常は見られなかった。彼自身が仕掛けた三個の爆発物を除いては……。

 すべての作業を終えて丘にのぼり、祠のわきにぽつんと置かれている石の上に腰をおろした。光の帯のような美しい車体が、視界の隅にはいってくる。そして、あっという間に走り去った。 中野は、もう一本、新幹線電車を見送り、発信機のボタンを押すタイミングをはかった。新幹線の車体の移動そのものより、その走行音に全神経を集中した。彼が実際にそのボタンに手をかけるころは、あたりは漆黒(しっこく)の闇に包まれているはずであり、周囲の景色と車体の位置関係でタイミングをとるのは危険だからだ。

 彼は二本めの電車が視界から去るのを確認すると、それきり、茶畑をかすめて走り抜ける列車には目もくれようとしなかった。長年、新幹線の保線作業員として働いてきた彼には、それで十分だった。

 そして、時が過ぎてゆくのを、ひたすら、待った。

 何も考えまいとしたが、国鉄時代の思い出が次から次へとよみがえってきた。

 念願がかない、日本国有鉄道静岡鉄道管理局に入社して初出社した日。新幹線総局の前身である東海道新幹線支社の職員に選ばれ、皆の羨望(せんぼう)の的となった日。東海道新幹線が開通した日。マル生(せい)で国鉄の組織全体が大きく揺れた日々。名ばかりの人材活用センターで雑用に明け暮れた屈辱の日々。高田さんが死んだ日。杉野さんが死んだ日。森川君が死んだ日。そして、国鉄分割民営化法案が成立した日……。

 いい思い出は若いときに集中していた。三〇代の後半からは苦しみばかりが思い出される。とくに四〇を越えてからは、分割民営化の嵐(あらし)にもまれ、国鉄労の分会長として、そして国鉄を愛する一労働者として、苦悩の日々が続いた。

 その苦しみも今日で今日で終わるはずであった。

 腕時計を見た。針はちょうど七時を指していた。<ひかり41号>がここを通過するまで、あと三〇分たらずである。心臓が高鳴ってゆくのが分かった。それを抑えるかのように、かたわらの発信機に目をやった。

 一瞬、全身の血が凍りついた。その視線の延長線上の草むらに気配を感じたのである。目をこらすが、闇に閉ざされた今、その姿は確かめようもない。しかし、何かがいた。それも十中八、九、人が……。向こうもこちらの視線を感じたのか、息を殺して緊張しているようであった。

 誰だ? おれの決意を知っている者か? 阻止しにやって来たのか?

 いや、そんなことはない。あるはずがない。

 冷たい汗が背中を伝い、握りしめたこぶしはじっとりと汗ばんだ。息づかいが激しくなり、のどがひきつる。暗闇の中でのにらみあいは一分ほど続き、静寂を通し、互いの心音さえ聞き取れるほどになった。

 中野はとうとう耐えきれなくなって立ち上がり、懐中電灯を向けた。

「誰だっ」

 とどなった。いや、どなったつもりだった。その声は恐怖でかすれ、かろうじて相手に届く程度のものだった。

 が、その声は意外な効果を発揮した。草むらが揺れ、相手が少しずつあとずさりしだしたのだ。ある程度、中野との距離ができると、背を向けて立ち上がり、足早に去って行く。うしろ姿を見るかぎり、それは若い男のようであった。

 中野は安堵(あんど)した。相手が何者か分からないという不安は残ったものの、彼が去ったことで、自分とは無関係に思えた。

 僅(わず)か二、三分間のできごとであったが、それでなくても緊張していた中野はどっと疲れを覚え、へなへなと腰から崩れ落ちた。しばらくは動けそうもなかった。

 放心状態の中野を現実に引き戻したのは、かすかな空気の振動であった。

 それは<ひかり41号>がもたらしたものだった。中野ははっとし、再び腕時計に目をやった。あと一分。

 無線の発信機を取り上げた。

 そのとき、また背後の木陰で人の気配がした。だが、中野はもうそちらには構っていられなかった。邪魔さえしなければいい。彼は、目の前に姿を現そうとしている標的に、全神経を集中した。

 空気の振動のあとを追いかけ、列車の走行音がしだいに近づく。中野は全身を耳にして、タイミングをうかがった。新幹線公害とずいぶん恨まれたこの走行音も、振動も、中野には快い。耳を傾けていると、ともすれば、決心が鈍りがちになる。中野はその音を振り払い、この半年間の地獄のような日々を思い起こした。

 一条の光が、中野の目を貫く。新幹線の白い車体がぼうっと闇に浮かび上がった。そして、またたく間にダイナマイトを仕掛けた最初の地点に近づくのを、走行音が教えた。高田さん、杉野さん、森川君……。藤田、竹中、房子、鉄郎、みんな、許してくれ……。

 走行音が臨界点に達した。

 中野は、発信機のボタンに手をかけた。今だ!

 しかし、中野の指は動かなかった。国鉄を、鉄道を愛し続けてきた中野に、新幹線を爆破することなど、できるはずはないのだ。たとえ、その愛した国鉄に言葉では言い尽くせない仕打ちを受けようと。

 <ひかり41号>は、何事もなく、彼が三個のダイナマイトを仕掛けた三〇〇メートルの線路を通過した。

 中野は枯れ草に泣き伏した。

 その泣き声は、列車の走行音を突き破って、木陰に身を隠していた男の耳に届いた。

 男も、顔を木に押しつけ、肩を震わせていた。

 それから、一〇秒も経(た)たないうちに、二人は同時に顔を上げた。新幹線の走行音が急に変化し、車体が悲鳴をあげたのだ。急ブレーキが掛かったことは明らかだった。

 中野はすぐに立ち上がり、<ひかり41号>を目で追った。スピードが落ちていくのがはっきりと分かった。そして山の陰に隠れ、見えなくなった。

 地震でも起きたのだろうか。が、その気配はない。俺(おれ)の計画が誰かに見ぬかれて、急停車したのか。いや、それはありえない。誰にも話していないし、万一疑われたにしても、ダイナマイトを仕掛けた場所が分かるはずがない。そこまでつかんでいるとしたら、<ひかり>は、もっと手前で止まっているはずだ。今、ここで俺がこうしていられるわけもない。

 中野はごく短時間にこれだけのことを考えると、新幹線に何があったのかを確かめずにはいられなくなり、懐中電灯を片手に丘を駆けおりた。悲しい習性だった。

 ふもとの鳥居をくぐったとき、中野は、背後に迫る足音と、もう一つの光の輪に気がついた。

 警察か。とっさに、彼は思った。観念して立ち止まり、追跡者に懐中電灯を向けた。精悍(せいかん)な若者の顔が映し出された。

「おまえ、どうして……」

 中野は絶句した。

 息子の鉄郎だった。

「おやじ、話はあとだ。それよりも新幹線を見に行こう。何かあったにちがいない。この先に車を停めてあるから。さあ、早く」

 鉄郎は言い終わらないうちに、再び駆けだした。それを見て、わけが分からずに立ちすくんでいた中野も、我に返り、あとを追った。

 数百メートル走り、中野が息を切らしながら扉を開けてあった車に乗り込むと、鉄郎は、すぐに発進させた。

 車の中で、中野は再び同じことを口にした。

「おまえ、どうして……」

「いや、おやじ、それはあとにしよう」

 鉄郎はそう言って、父の口を封じ、会話は途切れた。二人は押し黙ったまま、ヘッドライトが照らし出す路面を見つめていた。

 沈黙に耐えきれず、鉄郎はラジオのスイッチを入れ、臨時ニュースでもやっていないかと選局してみた。だが、聞こえてくるのは歌謡曲などのディスクジョッキー番組ばかりだった。NHKを含め、どの局も似たような番組を流していた。

 あきらめた鉄郎がスイッチを切ったとき、車が山の陰から抜け出て、前方右手の水田の中に停車中の<ひかり41号>が見えてきた。車窓の明かりと白の車体しかはっきり見えないため、それはまるで空中に浮かんでいるように見えた。

 鉄郎はちょうど8号車のあたりに車を停めた。そこから新幹線の築堤までは、まだ三〇〇メートルぐらいあった。鉄郎は念のためライトを消し、車の中から車内を観察した。遠目にははっきり分からないが、まだ止まったばかりで、とくに混乱は見られず、今のところ車内で何か起きた様子はなかった。

「やれやれ、事故じゃなさそうだな。よかった。」

 中野はほっとしてつぶやいた。しかし、すぐに自分の言葉の矛盾に気がついた。さっきまで本気で目の前の<ひかり41号>を爆破しようと考えていた男が、何を言っているのか、と。

 そしてはっと振り返り、鉄郎に目をやった。鉄郎も気がついたらしく、中野の言葉に答えようとはしない。何もかも知っているようであった。

 気まずい思いで中野はまた<ひかり41号>に目を戻した。すると、12号車のドアが突然開き、中から一人の男が飛び降りた。

「また、自殺かな」

 鉄郎が独り言のようにつぶやくと、中野が言った。

「あの降りてきたやつが車掌だとしたら、多分そうだろう。ただのいたずらの可能性もあるが」

「なにも新幹線を使って自殺することもないのにな。俺たちがどれだけ迷惑を被るか、死んだやつに教えてやりたいよ」

 鉄郎が腹だたしげにそう言って、ドアに手をかけた。

「鉄郎、待て。自殺じゃないみたいだぞ。見ろ、防護柵を乗り越えている。あれは車掌じゃない」

 鉄郎が顔を上げて目をこらすと、柵から飛び降りた男がかなりの勢いでこちらの県道のほうへ走ってくるのが分かった。車を停めた県道は少し高くなっているので、闇に慣れてきた目には、よく見てとれた。

 水田と道路の間の緩衝地帯には枯れかかった背の高い雑草が生い茂っているため、向こうからは車が見えないのだろう。まっすぐこちらへ向かってくる。

「単なるいたずらか、車内で何かやったのか、それは分からんが、たぶん非常ブレーキのコックを引いたんだろう」

 中野が言った。

「うん、よし、つかまえてやる」

 足と腕に自信のある鉄郎は、そう言うと、俊敏な動作で車の外に出た。そして、道路を横切って、ガードレールを飛び越えた。中野もあとに続いた。

 必死で走っていた男は、鉄郎と中野の姿に気づくと、一瞬すくんだように立ち止まった。男のひきつった表情を、鉄郎は見たような気がした。

 男は脇(わき)の畦道(あぜみち)に身を躍らせ、また走りだした。鉄郎と中野も必死で追った。二〇〇メートルも走ると、鉄郎は男に追いつき、飛びかかった。

「うっ」

 低い悲鳴があがり、男はあっけなく倒れた。走りづめで、かなり疲れているようだった。

 取っ組み合いが始まった。車から見ていたときは、小さな体のように感じていたが、実際は鉄郎よりも大柄で、慎重は一メートル八〇センチ近くありそうだった。二人とも一言も発せず、ただ相手を倒すことに全力を傾けている。体のぶつかりあう音と、荒い呼吸が、あたりの静けさをいっそう際立たせた。

 腕には自信のある鉄郎も予想外の相手の大きさにとまどい、初めのうちは押されぎみだったが、のしかかられたときに苦しまぎれに繰り出した右ストレートが運よく男の眉間(みけん)に命中し、形勢が逆転した。鉄郎が上になり、男の肩を押さえつける。

 男がなおも抵抗しようとしたとき、かたわらに息をはずませた中野が立った。観念したように、男は急に力を抜いた。

 中野が懐中電灯で男の顔を照らした。

「あっ、おまえ!」

「えっ」

 鉄郎と中野が同時に驚きの声をあげた。

>>第2回




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